そういえば、行ってきたんでした。 BTW, I have been there

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【歴史をどこまで覚えている?】ベルリンの壁の物語。終戦からベルリンの壁崩壊まで。

イーストサイドギャラリー

少し前にアメリカの大統領「ドナルド・トランプ」氏が
メキシコとの国境に壁を作ると言って物議を醸し出していたことは
記憶に新しいかと思います。
 
さてこれを聞いた時に
「そんなこと不可能だ」と思った方も多くはないのでしょうか?
 
話は遡って1961年にそのような「不可能」は実際に決行されました。
多くの方の記憶にはあるかと思いますが、
そう「ベルリンの壁」です。
 
東ドイツが西ベルリンを囲むように長さ155kmにも及ぶ壁が作られました。
 
先日ベルリンに遊び行った際にその壁を触れてきました。
 
当時の壁がまだ残っていることに衝撃を覚えつつ、
実は「ベルリンの壁」についてよく知らないことに気がつきました。
 
今日は旅行の振り返りも込めて
「なぜベルリンの壁が作られたのか?」
「ドイツ分裂の影に潜む二つの大国」
「ベルリンの壁崩壊は国民が国を超えた結果」
 ここら辺を再学習していきたいと思います。
 
 

なぜベルリンの壁は作られたのか?

 

ベルリンの壁の建設と崩壊

 
1961年ドイツ民主共和国(東ドイツ)の国境警備隊が
西ベルリンの周りを取り囲むように3メートルの高さの壁を155キロにも及ぶ長さで作りました。
 
こうしてベルリンの西側部分は、東ドイツから分離されてしまいました。 
 

なぜ東ドイツは西ドイツを分離したのか

西ベルリンと東ベルリン

 
終戦後、二つに分けられた東ドイツと西ドイツではそれぞれ別の経済政策が行われました。
これにより両国の経済状況は真逆に進んでいきます。
 
経済状況が見る見る悪化していく東ドイツに対して、
隣国西ドイツの経済は著しく成長していきました。
 
結果、東ドイツ建国から壁を作るまでの12年間、
東ドイツから合計約200万人もの国民が西ドイツに移住していました。
 
では、なぜ元々は同じ国である両国に東西格差が生まれてしまったのでしょうか?
 
そこには、上にも述べたように両国に用いられた経済政策の違いが大きく影響しており、この経済政策を施したのが二つの大国です。
 
 

ドイツ分裂の影に潜む二つの大国

 

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第二次世界大戦の敗戦国ドイツに対して、ナチス化の脱却と民主化の躍進を図るために、

アメリカ、イギリス、フランス、ソ連による4国分割管理が行われることが決定されました。

これがヤルタ会議です。 

西側がアメリカ、イギリス、フランス、東側がソ連によって管理されました。
 
敗戦直後のドイツは2つに分けられたわけではなくて、
実際は4つに分断されていたわけですね。
 
4つ分断されたドイツですが、
西側では資本主義が取り入れられ、
東側では社会主義化が行われました。 
 
この主義の違いがドイツの分国化、ベルリンの壁の誕生に繋がっていきます。
 

西ドイツの経済旧復興を決定付けた「ライン川とルール地方の経済の奇跡」

 
1948年、西側では旧通貨(ライヒスマルク)から、新通貨(ドイツマルク)への転換が行われました。
これに伴い自由価格制にし市場経済を急速に復活させました。(「ライン川とルール地方の経済の奇跡」)
 
この新貨幣導入はソ連には秘密裏に行われていたのです。 
 
これに対して
ソ連サイドはポツダム宣言違反として大激怒し、ベルリンの封鎖を実行しました。
 
ベルリンの封鎖によって、ベルリンの壁誕生に先立つこと13年、東西が分断さました。
 
大激怒したソ連サイドですが、
実は、彼らも占領圏内で新通貨(オストマルク)の発行を行っていたようです。
しかし、貨幣の変更のみを行い経済政策は変えていない東ドイツ側には奇跡は訪れなかったようです。 
 
 

封鎖されたのは西ベルリン。西ドイツと間違いに注意

 西ドイツと西ベルリンの違いは何?
画像:Wikipedia
 
上の画像を見ると 旧ドイツのどの地域がどの国に管理されていたかがわかるかと思います。 
 
この画像、ソ連管理側の東ドイツをよく見ると、
国旗の右下にカラフルな場所があることに気がつきます。
ここがベルリンです。
 
ドイツの管理を地域ごとに分けていたのですが、
ベルリンだけは主要地ということで東側にあるにも関わらず、
4カ国による管理がされていたわけですね。
 
話をベルリン封鎖に戻します。 
 
新通貨導入に激怒したソ連が西ベルリンを封鎖しました。
 
具体的には、
西ドイツからベルリンへ繋がる陸路の完全封鎖を実施しました。
人の運搬だけでなく物資や電力等の移動も禁止したのです。
 
画像からもわかるように完全に陸の孤島と化してしました。
 
しかし、さすが大国アメリカ空路を利用し封鎖作戦を打破しました。
結果、 ソ連もベルリン封鎖の失敗を認め1949年5月12日に封鎖は解除されました。 
 
このベルリン封鎖により4国管理理事会は機能を失い、
ドイツの東西分裂が事実上確定しました。

 

ちなみにここまでは、ドイツはまだ一つの国でした。
 

西ドイツ、東ドイツの成立

1949年、西側管理地域に西ドイツが成立し、
その後、ソ連側でも東ドイツが成立しました。
 
ドイツという国を舞台にした「アメリカ」と「ソ連」の争いが 
 自国民の意思とは別にドイツを二つの国にしてしまいました。
 
しかし、二分化されたとはいえ、
物理的な境界「ベルリンの壁」はまだなく西ベルリンを通って、
西ドイツへ脱出できたそうです。
 
経済成長中の西ドイツへの憧れ、ドイツの統一を望む東ドイツの国民は西への脱出を続け、
東ドイツは人口流出を防ぐためにベルリンの壁を建設しました。
 

ベルリン壁崩壊は国民が国を超えた結果

左が西ドイツ、右が東ドイツ

 

1989年11月、東ベルリンで東ドイツ史上最大のデモが発生しました。
無理やり国を分けられた国民の不満は最高潮に。
 
これらの事情を踏まえて
当時の旅券局長は旅行の自由に関する新しい規定打ち出しました。
しかし、
この規定は壁の崩壊、つまりは東西ドイツへの通行の無条件化を示唆するものではなく規制緩和を促すものでした。
 

壁の崩壊は勘違いから生まれた? 

 

東西境界線上に置かれていた国境検問所「チェックポイント・チャーリー」

 
新規定の発表は政治局広報官によって行われました。
 
しかし、この広報官は規定緩和の会議に出ておらず、
内容を把握しきれていませんでした。
 
結果、緩和を緩める発表をするはずだった記者会見で
「東ドイツからの出国を直ちに認める」と、
出入国の自由化を誤発表してしまいました。
 
この発表を東、西ドイツそれぞれのメディアが拡散しました。
「東ドイツ、西へ国境開放!!」
 
これにより国民たちは興奮し、遮断機の前に集合しました。
テンションボルテージが最高峰になった国民は「開けろ!」と合唱を行いました。
 
この熱気に負け、国家保安省中佐が自分の判断で遮断機を開け解放が始まりました。
また、これに伴いほかの通過地点6カ所も次々に開放されていきました。
 
これによりベルリンの壁の無力がなされました。
 
自国民の意思とは別に分裂を余儀なくされたドイツですが、
最後は国民の強い意思が東西統一へと結びつきました。
 

最後に

今ではベルリン一番の観光地であるベルリンの壁

 
知っているようで知らないベルリンの壁の歴史について再学習しました。
 
大国の思案が生んだ大きな流れに翻弄されるドイツと、
それを自分たちの手で打破した国民たちの強い意思がベルリンの壁の歴史には詰まっているようです。
 
今でも、ベルリンの街中に残るベルリンの壁には、
当時の悲惨さを風化させず構成へと伝えて行こうとする彼らの思いとは別に、
国民主体で国を変えた彼らの熱い思いも込められているのかもしれません。
 
 
実際に現地で壁を触れてみただけでは感じきれない、
多くの歴史が詰まった「ベルリンの壁」。
歴史背景も知った上で、また観光にいきたいものです。